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公民権運動を描いた映画、ドキュメンタリーなどを観て黒人たちの闘いに感動しました。これは主に南部のいくつかの出来事を振り返り、その史跡を訪ね歩いた記録です。
● ニュー・オーリンズ(ルイジアナ州)のルビィ・ブリッジス(6歳)の入学 (1960)実はRuby Bridges(ルビィ・ブリッジス)をめぐる事件は他の項目ほど重みがあるとは云えません。彼女は同じ時期に白人小学校に入学することになった四人の少女たちの一人にすぎず、州知事が彼女の前に立ちはだかったわけでもなく、彼女が傷ついたわけでもないからです。しかし、次のような理由でRuby Bridgesは公民権運動の象徴の一つとなったと云えます。 1) 1960年、彼女の登校を阻止しようとする大群衆と野次馬の中に作家John Steinbeck(ジョン・スタインベック)がいて、その体験を'Travels With Charley'『チャーリィとの旅』で詳述した。 1954年、連邦最高裁は「公教育の場における人種差別は違憲」という判決を下しました。しかし、そういう判決が出たからといって、手をこまぬいて待っているだけでは人種差別はなくなりません。裁判の原動力となったNAACP(全国黒人地位向上協会)は、白人学校への黒人生徒の転入運動を展開するよう全国各地の支部に指示しました。1957年のアーカンソー州リトル・ロックのセントラル高校への9人の黒人男女生徒の転入は、その最も大きな運動です。連邦政府の後押しもあり、次第に全米の学校の人種統合は進展しました。しかし、ディープ・サウス(深南部)の状況はそう簡単ではありませんでした。 1960年、ルイジアナ州ニュー・オーリンズでは連邦裁の命令により二つの白人小学校の門戸を開くことになり、新入学の黒人少女四人が候補として選ばれました。そのうち三人はMcDonough(マクドノー)小学校へ、一人がWilliam Frantz(ウィリアム・フランツ)小学校へ行くことに決定。しかし、ルイジアナ州政府の抵抗は凄まじく、人種統合に反対するいくつもの新法案を可決。州知事Jimmie H. Davis(ジミィ・H・デイヴィス)は「黒人生徒を白人の学校に通わせないためなら監獄に行ってもよい」と公言し、さらに「人種統合をするくらいなら公立学校を閉鎖する」とまで云っていました。しかし、連邦地方裁は「人種統合に反対する法案」は違憲であり、11月14日を最終のデッドラインとして示しました。 一人で白人小学校へ通うことになったのはRuby Bridges(ルビィ・ブリッジス)という6歳の女の子。近くの農村から二年前に一家で出て来たばかりでした。両親は十分な教育を受けていなかったので、父はガソリン・スタンドの店員、母親は時折ホテルの夜間清掃の仕事をして生計を立てていました。 デッドラインの同年11月14日、連邦政府が差し向けたU.S.マーシャル(連邦執行官)たちとその車が迎えに来ました。彼らは暴徒に備えて拳銃を携帯していました。母親に付き添われたRuby Bridgesが車に乗り込むと、U.S.マーシャルの一人が「学校に着いたら、我々がドアを開けるまで外に出ないように。我々四人はあなた方の周囲を守ります。歩き始めたら後ろを振り返ったりしないで下さい」と説明しました。 William Frantz小学校の前は父兄や青少年、警官隊などで埋め尽くされていました。人々は南軍の旗を振り、Ruby Bridgesに悪態をつき、唾を吐き、物を投げました。【Norman Rockwellの絵について】棺桶に入っている黒い人形をかざす人もいました。若者たちは応援団が使うフレーズをもじって"Two, four, six, eight, we don't want to integrate."(2、4、6、8、統合なんぞしたくない)を連呼しました。その騒音はニュー・オーリンズの祭Mardi Gras(マルディ・グラ)みたいだったとRuby Bridgesは回想しています。 Ruby Bridgesは母親と二人で二階の校長室の前で待たされました。それも一日中。その日がRuby Bridgesの入学の日だと知らずに息子や娘を登校させた母親たちは、大慌てで子供を連れ帰るためにやって来て、校長に抗議し、Ruby Bridgesを指差しながら声高に話していました。何もしないで下校時間となり、さらに膨れ上がった群衆の間を縫って、U.S.マーシャルに守られて二人は帰宅しました。 Ruby Bridgesは近所の友達のところへ飛んで行きました。彼女は友達に今日覚えた文句を教え、二人で縄跳びをして遊びました。その文句とは"Two, four, six, eight, we don't want to integrate."(2、4、6、8、統合なんぞしたくない)でした。彼女にはその意味が分らなかったのでした。 二日目、北部出身のMrs. Henry(ミセズ・ヘンリィ)がRuby Bridgesを教えることになりました。父兄が通学をボイコットしたため、どの教室も空っぽでした。先生と生徒、二人だけの授業がスタートしました。Mrs. Henryは毎朝Ruby Bridgesの洋服を褒め、ハグ(抱擁)し、常に隣りの机に並んで座るようにしました。U.S.マーシャルが廊下に待機し、Ruby Bridgesがお手洗いに行く時も護衛しました。 この時期、白人の子の親たちは自分の子供が騒ぎに巻き込まれるのを恐れました。しかし、いつまでも通学させずに子供を遊ばせておくわけにも行かず、勇敢な父兄の一部が通学を再開させました。群衆は彼らを裏切り者のように罵り、石や卵を投げました。嫌がらせに耐えられず、他の学区に引っ越す家族もありました。ニュー・オーリンズの街では暴動によって略奪が行われたり、K.K.K.が黒人街で十字架を燃したりしました。576名の在籍者のうち、戻ったのはたった三人でした。 【John Steinbeckの観察】絵本'The Story of Ruby Bridges'には次のような箇所があります。ある日、Mrs. Henryが窓からRuby Bridgesの登校を見守っていました。普通はU.S.マーシャルに守られて真っ直ぐ歩いて来るRuby Bridgesでしたが、この日は立ち止まって群衆に何か云っているように見えました。教室に到着した彼女にMrs. Henryが「あなたは人々に何を云ったの?」と聞くと、「何も云っていない」との返事。「でも、あなたの唇が動くのを見たのよ」と云うと、Ruby Bridgesは「わたし、お祈りをしたの。いつもは学校へ着く前にお祈りするんだけど、今日は遅れたの」ということでした。そのお祈りとは、 "Please, God, try to forgive those people. Ruby Bridgesは、これを登・下校の際に毎日繰り返したそうです。 感謝祭の時期となり、学校はお休みになりました。Ruby Bridgesの父親は白人オーナーの嫌がらせでガソリン・スタンドを馘になりました。家の大家は「立ち退け」と催促しました。全米からの励ましの手紙、お金、プレゼントなどが唯一の助けだったそうです。中でもFranklin Roosevelt(フランクリン・ルーズヴェルト)大統領の未亡人Eleanor(エレナー)からの手紙は母親を勇気づけてくれました。 12月に入ると群衆の数は減り、William Frantz小学校に戻って来る生徒の数が増えました。しかし、彼ら白人の生徒は全く別な教室に集められ、Ruby Bridgesは相変わらずMrs. Henryと二人きりでした。Mrs. Henryは「これでは人種統合化ではない」と校長に詰め寄りました。校長会での討議を示唆したところ、ついに校長は折れましたが、毎日一回白人の子供たちがRuby Bridgesのクラスにやって来るだけでした。 二年目、もう群衆はいず、U.S.マーシャルは消え、おまけにMrs. Henryも消えてしまいました。Mrs. Henryは初めての赤ん坊を身ごもっていて、郷里のボストンで出産するため職を辞したのでした。教室には20人の子供たちがいて、数人の黒人の子までいました。William Frantz小学校の人種統合はついに達成されたのでした。 Ruby Bridgesは無事William Frantz小学校を卒業し、高校を出てからニュー・オーリンズの旅行代理店で初の黒人従業員として勤務しました。彼女がガッカリしているのは、現在のWilliam Frantz小学校にまた人種差別が起っていることです。彼女は白人の学校に黒人が参加する道を切り開いたのですが、現在この学区の住人はほとんど黒人となり(多分、白人は出て行ってしまった)、William Frantz小学校はいまや黒人だけの学校になってしまったのです。これでは1960年以前に戻ってしまったことになります。Ruby Bridgesが主宰する'Ruby Bridges Foundation'(ルビィ・ブリッジス財団)は、そうしたハンデを克服すべく子供の不良化を防ぐ活動や、子供たちにグローバルな文化を教える活動を展開しているそうです。 2003年1月の新聞に「全米の公立学校は再び人種差別され始めた」というAPの記事が掲載されました。ハーヴァード大の公民権プロジェクトが全米の2000〜2001年に在籍した生徒について調べたデータによれば、黒人とラテン系はそうした人種が多い学校に集まり、同様に白人生徒は白人が多い学校に集まる傾向を示したそうです。 「1964年、連邦最高裁の『公教育の場における人種差別は違憲』判決の10年後、南部の黒人の98%は完全に人種によって分離された学校に通っていた。1988年、南部の黒人の44%は白人が大多数を占める学校に通学していた。2000年、白人が過半数の学校に通う黒人は31%に減少した」 もう一つ、APが伝えた2003年8月のルイジアナ州の州都Baton Rouge(バトン・ルージュ)の現状。 「黒人生徒の半数は貧困家庭で育っている。経済的に余裕のある中産階級の白人の多くが、45,000人対象の公立学校を見捨て、私立学校への入学を指向している。市の必死の努力にもかかわらず、Baton Rougeにおいて、2,000年までに白人生徒数の74%は私立学校へ行ってしまい、公立学校に戻って来る気配はない」 William Frantz小学校へ行ってみました。Ruby Bridgesの入学当時、大群衆が集まったという割りには、学校前の通りは5mもない狭い通りです。John Steinbeckはどこに立っていたのだろう?と思いました。あれだけRuby Bridgesの行動を描写出来たのですから、学校入り口近くで罵声を浴びせていた御婦人たちの真ん中で、おしくらまんじゅうのように立っていたに違いありません。 William Frantz小学校の現在の校長Waldo J. White, Jr.(ウォルド・J・ホワイト二世)に会うことが出来ました。ここでは幼稚園から小学校までの生徒を扱っていますが、Ruby Bridgesの本'Through My Eyes'は必読の教科書となっているそうです。「黒人の生徒だけになってしまったことをどう思うか?」と聞くと、「この学区から白人が出て行き、黒人ばかりになってしまったのだから仕方がない。無理矢理白人を呼び戻すわけにもいかない。それよりも、この学区の住民に引退者が多くなってしまい、子供の数が減っているのが問題だ。学校の存続さえ危うい状態だ」とのことでした。毎年11月14日(Ruby Bridgesの初登校日)には記念行事が行われ、Ruby Bridgesを前にして生徒たちの'Through My Eyes'に関する読書感想文などの発表があるそうです。 幼稚園生を教えているMary Pham(メアリ・ファム)は「御覧のように、たった9人しか生徒がいないの」と悲しそうでした。 教育現場の新たな人種差別はアメリカの大問題でしょう。私の住む町でさえ、中流以上の家庭の白人の子供たちは私立校に行き、公立学校は黒人、ヒスパニック系など、主に貧しい家庭の子が集まる学校になってしまいました。理由は色々考えられます。先ず、公立は先生のレヴェルが低い。南部、特にミシシッピ州などはアメリカの中で最も公立校教師の賃金が低いところですから、いい先生は他州に移るのが普通なのです。また、白人の親たちは自分の子供が暴力、犯罪、ドラッグなどに巻き込まれることを恐れます。学校のトイレが暴力行為の温床であるとして、教師たちが巡回を強化していますが、完全に目が届くわけではなく、白人(特に女生徒)の父兄は公立学校を恐れているようです。アメリカでは、子供を学校に通わせず、親が教師となって教える"Home School"というのが認められていて、かなりの数の家庭がこれを実施しています。「政府のいいように教育されるのは御免だ」というのが親たちの云い分ですが、水面下には「黒人と一緒に通わせたくない。しかし、私立にやるお金もない」という理由があるような気がします。 Ruby Bridgesについては次の映画があります。私の映画紹介は以下をご覧ください。 ・'Ruby Bridges'(TV映画、本邦未公開) (1983) 【参考文献】
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