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公民権運動を描いた映画、ドキュメンタリーなどを観て黒人たちの闘いに感動しました。これは主に南部のいくつかの出来事を振り返り、その史跡を訪ね歩いた記録です。
● ミシシッピ州「フリーダム・サマー」活動家三人の暗殺(1964)2002年9月28日、私の住むミシシッピ州Meridian(メリディアン)から車で約40分のところにあるPhiladelphia(フィラデルフィア)という町で、「K.K.K.の行進がある」というニュースを読みました。もうK.K.K.など絶滅したと思っていましたが、どうしてどうして、まだ生き残っているようです。フィラデルフィアは有名な北部の都市と同名ですが、こちらのは比較にならないちっぽけな町。近くのインディアン保護区にあるカシノ(賭博施設)の繁栄のおこぼれで暮しているようなもので、大した発展は遂げていません。 予定時刻に、町の中心の裁判所前に行進がやって来ました。たった4人。やはり、絶滅寸前のようです。ベッド・シーツを縫ったような白装束は1人で、他は高位のメンバーを示すカラフルな衣装です。その1人(女性)は帽子を脱いで"God bless y'all!"(皆さんに神のお恵みがあらんことを)と叫んでいます。しかし、たった4人では何やらチンドン屋にしか見えませんでした。それにしても、K.K.K.の行進を先導するのが黒人警官たちというのが、なんとも奇妙です。 黒人の野次馬が結構いまして、私は数人の黒人女性の傍で待機していました。彼等が「私らは昔も今も自由だわよ!」と書いたプラカードを用意していたので、ひょっとすると両者の接近遭遇があるかも知れないと思ったのです。黒人女性たちは重量級の立派な体格でしたが、やはりK.K.K.は恐いと見えて、道路に飛び出したりはしませんでした。 実はフィラデルフィアとK.K.K.は切っても切れない縁があるのです。1964年の夏は"Freedom Summer"(自由の夏)と呼ばれています。黒人の投票権登録数がアメリカで最も少ないミシシッピ州をターゲットに、いくつかの公民権運動グループがCOFO(Council of Federated Organizations=連合組織協議会)という統合した組織を作り、学生ヴォランティア(白人・黒人の男女)800人を集めオハイオ州で研修の後、1人ずつミシシッピ州各地に派遣しました。ニューヨーク生まれの学生Andrew Goodman(アンドルー・グッドマン)は、派遣された翌日に地元活動家2人と共にフィラデルフィアを訪れ、K.K.K.である保安官と保安官補によって逮捕され、K.K.K.メンバー多数に引き渡されて殺されてしまったのです。この事件は全米を震撼させました。このような“過去”がある町で、たった4人とはいえ今なおK.K.K.が公然と行進するというのは、反省の色が無いどころか、アメリカ全体の感情を逆撫でするものと云わねばなりません。 私の友人の娘Susan(スーザン)はミシシッピ大学を卒業後西海岸に移り、結婚してオレゴン州で暮しています。「ホームタウンであるメリディアンの名前は、公民権運動活動家3人を殺害したK.K.K.の町として有名になってしまい、私には耐えられなかった。それで西海岸へ逃げたの」と彼女は云いました。殺された3人の1人がメリディアン出身であることは知っていましたが、全てはフィラデルフィアのお話だと思っていました。メリディアンがそんなに深く関係していたとは? ニューヨーク生まれの青年Mickey Schwerner(ミッキィ・シュワーナー)は獣医になるのが夢でした。しかし、大学在学中に「動物よりも人間のために働きたい」という思いが強くなり、専攻を変更しました。大学卒業後はニューヨークで青少年対象のカウンセラーのような仕事に就きましたが、その頃吹き荒れていた人種問題が彼の心を捉え、CORE(The Congress of Racial Equality=人種的平等評議会)という組織に加入しました。 1963年、アラバマ州Birmingham(バーミングハム)の教会爆破事件で4人の少女が殺された時、24歳のMickey Schwernerはいてもたってもいられなくなりました。火元から遠いニューヨークでのほほんとしているのではなく、火中の南部で24時間働きたいと思い始めたのです。20歳の妻Rita(リタ)が学校を卒業するのを待ち、夫婦揃って活動家としてCOREに雇われ、ミシシッピに赴任することになりました。 1964年1月、2人はミシシッピ州の州都ジャクスンのCORE支部に到着し、「メリディアンを活動拠点にせよ」という指令を受け、即刻メリディアンに移動しました。私の住むメリディアンはミシシッピ州中東部に位置し、現在人口約40,000、年々黒人人口が増え、今では4:6ぐらいで黒人が多くなっています。 先ず住居が必要でしたが、黒人たちは活動家を泊めると白人たちから迫害されるだろうと恐れ、みな尻込みしました。黒人の青少年のためのCommunity Centerにする家は何とか借りられたので、当座はそこに寝泊まりしました。暖房もなく、鍵もかからない家でした。この家は後に"Freedom House"とも呼ばれました。 Mickey Schwernerは黒人の学校、教会などを巡って、選挙権登録の必要性を説き、ヴォランティアを募って歩きました。妻のRitaは黒人の少年少女に本を読んだり、勉強を教えたりしました。彼等の実りある功績は、近くの雑貨屋に黒人の店員を雇わせたことです。当然、店主の抵抗があったのですが、Mickey Schwernerが黒人の不買運動を指導し、ついに陥落させたのでした。しかし、その他では目立った実績は上げられませんでした。 無給の地元ヴォランティアだった21歳の黒人青年James Chaney(ジェイムズ・チェイニイ)は、Mickey Schwernerを信奉し、選挙権登録運動の説得力も身につけ、Mickey Schwernerの強い推薦でCOREに雇われることになりました。James Chaneyの助けを得てMickey Schwernerは郡部に活動範囲を広げる決意をします。 メリディアンが含まれるローダーデイル郡の北方に隣接してナショバ郡というのがあります。Neshoba(ナショバ)とはインディアンの言葉で「狼」という意味。郡全体としての人口は当時21,000、行政の中心の町フィラデルフィアの総人口は6,000で、黒人の数は比較的少ない地域でした。 ところで、このナショバ郡の保安官、保安官補がどちらもK.K.K.であることは公然の秘密で、保安官の公約は「黒人と余所者の扱いは任せてくれ」というものでした。James Chaneyはそういう事情をよく知っていましたから、フィラデルフィアを往復する時はハイウェイを使わず、夜でも無灯火で田舎道をフルスピードで走るほどでした。 K.K.K.は単に黒人を差別する組織と思われがちですが、実は黒人に味方する白人を「裏切者」として黒人よりももっと憎みます。K.K.K.はナチの旗を翻すこともあるくらいで、ユダヤ人も憎みます。“平和な”南部にやって来て波風を立てる余所者も憎みます。Mickey Schwernerは名前が示すようにユダヤ系アメリカ人で、黒人に味方する余所者ですから、K.K.K.が忌み嫌う条件を完備していました。 Mickey Schwernerはフィラデルフィア郊外のMt. Zion Methodist Church(マウント・ツァイオン・メソディスト・チャーチ)会衆の合意を得て、ここで選挙権登録のための勉強会を長期的に開催する手筈を整えました。この動きはK.K.K.の知るところとなり、教会の周りをシェリフのパトカーが頻繁に行ったり来たりするようになります。 折しもオハイオ州で800人の学生ヴオランティアがミシシッピ州での選挙権登録の草の根運動を推進すべく一週間のトレーニングを受けていました。Mickey Schwernerはメリディアンに配属予定の学生Andrew Goodmanを迎えに行きます。Andrew Goodmanもニューヨーク生まれで20歳でした。 メリディアンでは市を牛耳る実業家たちが「Mickey SchwernerをK.K.K.から守れ」と警察に命じていました。実はこの実業家たちもユダヤ人だったのですが、ユダヤ人同士だから守るというのではなく、何か不祥事があってメリディアンが全米から注目されるのを嫌ったのでした。警察内部にもK.K.K.メンバーやシンパがいたほどでしたが、上からの命令はかたく守られ、K.K.K.もMickey Schwernerに手を出せませんでした。「しかし、郡部のフィラデルフィアなら文句あるまい」と、K.K.K.はフィラデルフィアにおけるMickey Schwerner暗殺計画を練り始めました。ある夜、Mt. Zion United Methodist Churchに沢山の車が集まっているのを目にしたK.K.K.は、Mickey Schwernerが主催している集会に違いないと考え、フィラデルフィアとメリディアンのK.K.K.に非常呼集をかけます。散会する会衆の中にMickey Schwernerを探しますが見当たりません(彼はまだオハイオにいたのです)。自棄になったK.K.K.は会衆に殴りかかって重傷を負わせ、あげくに教会にディーゼル・オイルをぶちまけて点火し全焼させてしまいます。 オハイオで教会焼失の報を聞いたMickey Schwernerは愕然としますが、自分たちの運動のために黒人会衆が怪我をしたり放火されたことに責任を感じたようです。時を同じくして米上院は公民権法案を可決、南部諸州の人種差別主義者たちの憤激を買います。これはK.K.K.にテロの口実を与える結果となりました。彼らは「Mickey Schwernerを血祭りに上げれば、連邦政府に抗議し、同時に800人の学生侵攻の出鼻をくじくことが出来る」と考えたのです。 オハイオから着いた翌日の6月21日(日曜日)午後、Mickey Schwerner、James Chaney、Andrew Goodmanの3人は車でフィラデルフィアに向かいました。全焼した教会を見て、黒人たちと話をした後、帰路につきました。往路は未舗装の田舎道を来たのですが、帰路、彼らの車はハイウェイをフィラデルフィアの町へと向いました。「(待ち伏せを避けるため)同じ道を通らない」という活動家の原則に従ったのかも知れませんし、来たばかりのAndrew Goodmanに町を見せようと思ったのかも知れません。しかし、この日のこの判断は最悪の結果を招きました。彼等の姿を認めた保安官補は、スピード違反を口実に3人を逮捕し、留置場に入れてしまいます。電話もかけさせず、夜まで放っておきました。明らかに、フィラデルフィアとメリディアンのK.K.K.が集合するまで時間稼ぎをしたわけです。 深夜になって3人は釈放されましたが、ハイウェイの郡境までエスコートして来た保安官補に停止を命じられます。保安官補はパトカーで3人をRock Cut Roadという山道へ誘導し、待ち受けていたK.K.K.多数に3人を引き渡します。K.K.K.は3人を射殺し、かねての計画通りに建設中の土手に死体を埋め、「喋った奴は殺す」とお互いに確認しあいました。 【詳細1】 3人の失踪のニュースは全米を駆け巡り、メリディアンの海軍航空訓練基地で研修中の400人の水兵がFBIに率いられて捜索にやって来ました。捜索は難航しましたが、約90日後、K.K.K.の1人が高額の金と刑の免除を引き換えに口を割り、3人の遺体が発見されました。Rita Schwernerは夫の亡骸をJames Chaneyと一緒にミシシッピの土に埋めたいと願いましたが、白人と黒人の墓地が厳然と分れているメリディアンでは、黒人の葬儀屋が「この町で白人と黒人を一緒に埋めるなんてとんでもない。そんなことをしたら町にいられなくなる」と拒否しました。 裁判は「殺人」ではなく「公民権を覆す陰謀」として扱われました。「殺人」であれば、それは「州」の管轄になってしまい、レッドネック同士の馴れ合い裁判になることは必定です。「憲法が認めた公民権の冒涜を謀議した」という視点なら「連邦政府」が訴えることが出来ます。有罪となった場合の最高の刑は10年の服役と$5,000でした。訴えられた18人は全員K.K.K.で、そのうち8人がメリディアンの人間でした。同じ町に住む私としては、鳥肌が立つ思いです。 地方裁判所による裁判は一審、二審とも被告たちに無罪を云い渡し、大詰めはメリディアンにおける連邦裁判所に持ち越されることになりました。 事件から二年後、Martin Luther King, Jr.(キング牧師)は「恐怖への行進」(別項)の途中フィラデルフィアにやって来て、300人の参加者と共に大通りを留置所まで行進しました。彼が裁判所ビルの階段に上がろうとした時、保安官補が「登るな」と制止しました。キング牧師は「そうか、あんたがMickey Schwernerら3人をぶち込んだ1人というわけだ」保安官補は「イエス・サー」と応じました。キング牧師は群衆に向き直り、「この郡において3人の若者が残虐にも殺された。只今この瞬間、私の周りに殺人者たちがいるのは間違いない」と語りかけた時、背後の保安官補は"You're damn right...they're right behind you."(まさにその通り。奴等はあんたの背後にいるぜ)と呟きました。キング牧師は「我々は恐れない。3人を殺したのなら、我々全員を殺さねばならない」と続けました。しかし、彼にとって、このフィラデルフィアの一幕は一生の中で最も恐ろしい経験だったそうです。「この町は私が知る最悪の町だ。完全な恐怖支配が行なわれている」と、後に述べています。 連邦裁判の結果については全米が「K.K.K.の仕返しを恐れる陪審員が有罪を宣告する筈が無い」と予測していましたが、事件から三年後の1967年10月21日、陪審員たちは「18人のうち7人に有罪、8人は無罪、3人については結論出ず」という毅然たる判決を下し、マスコミの賞賛を浴びました。裁判長は有罪の中の2人に10年の刑、他の5人には5〜3年の刑を云い渡しました。実は、これはミシシッピ州において白人が黒人を殺害して有罪が宣告された初めてのケースだったそうです。 【詳細2】 Mickey Schwerner夫妻がCommunity Center("Freedom House")とした建物はまだ残っています。鉄道線路に近い、黒人ばかり住んでいる地域の真ん中にあります。ごく普通の民家で、当時は黄色に塗られていたそうですが、現在は薄いウグイス色になっています。近所の70歳代の黒人女性は39年前のことをよく覚えていました。メリディアンのK.K.K.の溜まり場も知っていたそうです。「2年前のことだけど、食料品店へ行ったら小さな子供が、『ママ、見て!Nigger(差別語:黒ん坊)がいるよ!』と私を指さしたの。私よりも、その子の母親がきまり悪くなって、あたふたと逃げるように出て行ったわ」と話してくれました。多分、その子の父親は"Nigger"、"Nigger"と云っているに違いありません。事件から40年近く経っても、まだ差別意識はなくなっていないのです。 Mickey Schwerner夫妻がやっと借りることが出来た住まいは、もうありませんでした。ひどいおんぼろで、五年前に倒壊したそうで、今は空き地になっています。「保存するように、市に援助を頼まなかったんですか?」と持ち主に聞くと、「頼んださ。しかし、拒絶された。あんたのように訪ねて来る人がいるんだから、残しておきたかったんだがね」と云っていました。 フィラデルフィアのMt. Zion United Methodist Churchを訪れました。町から高速16号線で8マイル(約13km)離れ、更に山の中へ1マイルほど入った辺鄙なところにあります。一軒一軒の家(ほとんどが農家)は500mから1kmぐらい離れて立っています。歴史的場所であることを示す案内板があり、"Freedom Summer Murders"(フリーダム・サマーの殺人)として事件の概要が記されています。教会は山の中としては大きい方で、礼拝所と集会所の両方があります。正面には三つの木の十字架が立てられていて、これは「三位一体」を象徴するのですが、ここでは犠牲となった3人を記念しているようにも見えます。前面の芝生には「全ての人々が人間としての権利を獲得するための闘いに命を捧げた」として3人の名が刻まれた碑があります。 フィラデルフィア市内には目立つところには慰霊碑はありません。市としては恥ずべき古傷なので、知らない人にわざわざ知らせたくないという考えだったのでしょう。たった一つあるのは、これも黒人の教会Mt. Nebo Missionary Baptist Churchの芝生にある慰霊碑です。3人の写真が入った立派なものです。なぜここにあるかというと、事件の2年後Martin Luther King, Jr.はここで3人の慰霊祭を挙行したからです。 Mickey SchwernerとAndrew Goodmanの遺体はニューヨークに送られ、それぞれの家の墓に葬られました。James Chaneyの墓はメリディアンの町外れにあります。近くの道路には「James Chaneyの墓がある」という市の標識は立っていますが、肝心の曲がり道には何も目印がありません。山の中の教会に近い墓地に、ひっそり一人だけ離れてお墓が立っています。差別主義者によって頻繁に墓石を倒され、填め込まれた写真も削り取られているとのこと。今は大きな鉄の支柱が墓石を支えています。 この事件の犯人探しの物語は'Mississippi Burning'『ミシシッピー・バーニング』(1988)として映画になりました。町の名前、人物の名前を変え、訴訟沙汰を避けようと努力したようですが、それでも保安官は訴えを起こしたそうです。 3人の暗殺という悲劇で幕を開けた「フリーダム・サマー」でしたが、ヴォランティアによる活動は怯まずに続けられました。夏が深まるにつれ、もう一人のヴォランティアが殺され、4人が重傷を負い、80人が殴打を受けました。地元民を含めた1,000人を越えるヴォランティアが逮捕され、場所を提供した60の教会・家・オフィスなどが爆弾や放火の被害に遭いました。一説には、「フリーダム・サマー」の指導者たちは「多少の犠牲は仕方がない。それによって連邦政府(の軍隊)がヴォランティアを護りに来てくれればいい」と考えていたようです。しかし、計4人の死亡者というのは、到底“多少の犠牲”ではありませんでした。この「フリーダム・サマー」は多くの草の根活動家を育て、その後のアメリカの学生運動、反戦運動、女性の地位向上運動などの母胎となったそうです。 2004年6月20日、フィラデルフィアの体育館で事件から40年目の追悼式が行われました。この催しの中心は'Neshoba Democrat'という新聞の前発行人であるStanley Dearman(スタンリィ・ディアマン、71歳)と現発行人のJames E. Prince, III(ジェイムズ・E・プリンス三世、42歳)の二人でした(ともに白人)。Stanley Dearmanは、この事件がフィラデルフィアの人々の心に罪悪感を沈殿させ、未だに全米から“恐ろしい人種偏見の町”と思われている事態を何とかしたいと願っていました。社説などでたびたび捜査の再開を訴えましたが、住民からの反響は皆無。2,000年に新聞社を引き継いだJames Princeは、当時はたった二歳でしたから事件を全く知らないのですが、新聞社がK.K.K.批判を続けて来たポリシーを受け継ぎ、住民有志30名とThe Philadelphia Coalition(フィラデルフィア連合)なるものを組織し、2,004年に町長をも巻き込んで州司法長官に捜査再開を願い出ました。2004年秋の段階では、州司法省はまだ捜査再開を確約しませんでしたが、FBIに対して資料公開を働きかける動きを始めました。 二人のジャーナリストの努力の結晶である40年目の式典で、来賓の州知事Haley Barbour(ヘイリィ・バーバー)は「悪が行われた時に、それを無視するのはその悪の片棒を担ぐのと同じである」と述べました。亡きAndrew Goodmanの母親Carolyn Goodman(キャロライン・グッドマン)もニューヨークから駆けつけ、「この土地で私がハッピーになれることがあるとは思ってもいなかったが、今日はハッピーな日である」と、ミシシッピの変化を讃えました。 私の日本の友人が2004年7月10日の朝日新聞の切り抜きを送ってくれました。それは六段組で上の追悼式を伝えたもの。「米ミシシッピ州公民権運動から40年」、「歴史の汚点、再捜査へ」、「住民の熱意、州動かす」などの大見出しが踊っています。Stanley DearmanとCarolyn Goodmanの写真も大きくあしらわれて、40年前の事件としては破格の扱いです。私はこの切り抜きを追悼式の発起人の一人で新聞社社長のJames Princeに贈呈することにし、彼に面会しました。 私がJames Princeに2002年のK.K.K.の行進の話をすると、「K.K.K.はまだこの町を昔のままであるかのように世界に印象づけたいんだ。われわれは地域住民に『行進を無視するように。見に行かないでくれ』とキャンペーンをした。憲法で保障された権利により、K.K.K.といえど行進する権利はある。われわれはそれを妨害することは出来ない。しかし、見物が少なければ彼らを失望させることは出来るだろうと思ったんだ」とJames Prince。彼とそのフィラデルフィア連合は、緩やかな歩みで町の"redemption"(贖罪)を行い、町の誇りを取り戻そうとしています。この時点では州司法省は実際には再捜査を約束していず、James Princeはもどかしい思いを感じていたようでした。 2004年の末、州司法省は突如「三人の殺害事件は2005年の初めに決着をつける」という談話を発表。そして2005年1月6日、フィラデルフィアのK.K.K.のリーダーだったEdgar Ray Killen(エドガー・レイ・キリン、現在80歳)が逮捕されました。彼は"Preacher"(説教師)というニックネームで呼ばれていますが、実際にバプティスト系の司祭の資格を持ち、今でも時折り説教を行っているそうです。当時は製材所のオーナーであり、シェリフの職に立候補したこともありました。1967年の「公民権を覆す陰謀」裁判では彼は「結論出ず」として罪を免れていました。しかし今回、「殺人事件」としての初の容疑者として逮捕されたのです。 【註】共同通信をソースとする日本のメディアは、Killenを「キレン」とローマ字読みで表記していますが、これは間違いです。上記地元新聞社社長のJames Princeに確認したところ、「"Kill-inn"と読む」という返事を貰いました。明らかに「キリン」です。 Edgar Ray Killenの逮捕劇には次のような舞台裏があります。2004年9月、殺されたAndrewの母親Carolyn GoodmanとAndrewの弟David Goodman(デヴィッド・グッドマン)は、The Philadelphia Coalition(フィラデルフィア連合)のリーダーたちと共に州都ジャクスンに赴き州司法長官Jim Hood(ジム・フッド)に面会したのです。David GoodmanはK.K.K.の告発を懇願しました。「私の家族のためばかりでなく、ナショバ郡と州のために正義を実現してほしい。負ける予感があってさえ訴えを起さねばならない時もある筈だ」と州司法長官の説得に努めました。 裁判は2005年6月16日に、事件が起きた事件が起きたPhiladelphiaにおいてMarcus Gordon(マーカス・ゴードン)裁判長の前で開始されました。検察側には州司法長官Jim Hoodが直々に参加するという背水の陣。陪審員は白人九人、黒人三人という人種構成で、これだと検察側に辛い事態になりそうでした。この日は、奇しくもK.K.K.が41年前に活動家三人をおびき寄せるために黒人の教会に火を放ち、全焼させた日でした。裁判の模様を伝えるため、全米はもとより世界数カ国から報道陣が駆けつけました。 検察側の証人のトップバッターは、殺害された白人青年Michael Schwerner(マイケル・シュワーナー、当時24歳)の未亡人Rita Schwerner Bender(リタ・シュワーナー・ベンダー、再婚したので新しい姓Benderがついている)でした。小柄で白髪、笑みをたたえて検事の問いに答えます。彼女の他に、やはり一緒に殺害された白人青年Andrew Goodman(アンドルー・グッドマン、当時20歳)の母親Carolyn Goodman(キャロライン・グッドマン、89歳)、同じく黒人青年James Chaney(ジェイムズ・チェイニィ、当時21歳)の母親Fannie Lee Chaney(ファニィ・リー・チェイニィ、82歳)も証言台に立ちました。しかし、彼らは被害者のバックグラウンドを話すに留まり、容疑者Edgar Ray Killenを殺人者と指弾したわけではありません。 41年前の事件ですから、もうあらかたの証人はあの世へ行ってしまっています。検察側は昔の二回の裁判で証言された記録のいくつかを朗読するという手段に出ました。昔の検事の質問は現在の検事が読み、証人の答えは検事の一人が朗読し、反対尋問は現在の弁護士が読みます。これは陪審員に聞かせるのが目的です。 検察側の決め手は、容疑者Edgar Ray Killenが暗殺について誇らしい言葉を漏らした会話を聞いたとする証人でしたが、この人物はレイプ犯として20年服役中という身でした。弁護側は何とこの男の兄を喚問し「弟の証言は嘘だ」と云わせました。この辺はまるで映画のようでした。 証人の数が少なかったこともあり、裁判は駆け足で進行しました。検察側の州司法長官が最終論告を行なった際、彼はEdgar Ray Killenを指差し「あの男です。あの男が三人の若者を死に至らしめたのです」と陪審員たちに訴えました。TVではEdgar Ray Killenのリアクションが捉えられました。声は聞こえませんでしたが、明らかに"Son of a bitch!"(くそったれ!)という風に唇が動きました。これが“説教師”と呼ばれた男の正体なのです。 6月20日、陪審員長は「6:6で膠着状態」と裁判長に報告しました。三名の黒人陪審員に加えて三人の白人が有罪に傾いているというのはいい知らせでしたが、このまま行けば40年前と同じ「結論出ず」という結果に終わる懸念もありました。しかしその翌日の6月21日、陪審員たちは「manslaughter(故殺)の罪で有罪」という全員一致の評決をもたらしました。容疑者Edgar Ray Killenは「殺人罪」で起訴されたのですが、殺人で有罪にするためには本人が拳銃をぶっぱなしたか、三人を殺せと指示した明白な事実を立証しなければなりません。「故殺」は、計画的殺人ではなく、感情の激発によって衝動的に殺人を行なったというもので、刑罰は軽くなります。実はこれは裁判長が陪審員への最後のインストラクションにおいて、「検察側は殺人を立証出来なかった。殺人より軽い故殺の罪も視野に入れて結論を出しなさい」と云った影響によるものです。後に陪審員の一人がある大新聞に寄稿した記事を読むと、「われわれはこの事件が“殺人”以外の何ものでもないことを知っていた。しかし、検察側は“殺人”で有罪に出来る証拠・証言を法廷に提出出来なかった。われわれは過去に知ったことや思い込みで人を裁くことは出来ない。そんなことをしたら、それはK.K.K.のやり方と同じになってしまう。“故殺”は立証された範囲で妥当かつフェアな結論だと考えている」と述べていました。 陪審員による有罪評決を受け、裁判長は「どんな生命にも価値がある。前途ある青年たちの命も尊重されるべきであった」と、一件につき故殺の罪の上限である20年の刑期を云い渡しました。犠牲者が三人ですから、計60年。この6月21日という日は、ちょうど41年前に三人の青年が殺された日でもありました。 弁護側は州最高裁に控訴し、同時にEdgar Ray Killenの保釈を求めました。同じMarcus Gordonを裁判長とする法廷で、再び検事側と弁護側が顔を合わせました。それぞれの云い分を聞いた裁判長は「検察側は、被告人を保釈することが社会に対して危険であると立証出来なかった」として、州最高裁裁判までの期間の保釈を認めました。実際には、Edgar Ray Killenが刑務所にいた間、「自殺する気はないだろうね?」という獄吏のお決まりの質問に対し、「おれが自殺するのはあんたを殺してからだ」と応じたという証言もあったので、この保釈には疑問の声が寄せられました。全国紙'Washington Post'さえ「Edgar Ray Killenにも控訴する権利はある。しかし、それまでの期間自由を味わう権利はない」と主張しました。 9月初旬、州がEdgar Ray Killenの保釈無効の訴えが起し、再び同じ裁判長の前に検察側と弁護側が対峙しました。検察側は「Edgar Ray Killenは木の下敷きになり下半身が不自由で、刑務所内では充分に治療出来ないと主張していたが、保釈中一人で車を運転し、ガソリンスタンドで一人で立って給油していた姿が目撃されている」として、数名の警察官に証言を述べさせました。裁判長は「下半身が不自由」という被告の申し立てが虚偽に基づくものであること知り、「真実を述べる者は公正な扱いを得るが、法廷で虚偽の証言をした者はそれなりの扱いを受けることになる」と、保釈を取り消す判断をしました。Edgar Ray Killenは自由の身を剥奪され、刑務所へ舞い戻ることになりました。 現状はともかく、Edgar Ray Killenとその弁護団は州最高裁に控訴しており、結着の日はまだ先と云わねばなりません。 【後記】2018年1月11日、Edgar Ray Killenは92歳で獄死しました。(January 19, 2018) この頃の出来事については次のような映画があります。 私の映画紹介は以下をご覧ください。 ・'Mississippi Burning'『ミシシッピー・バーニング』(1988) TV映画'Freedom Song'はミシシッピ州の選挙権登録の運動をテーマにしたものです。活動家3人の悲劇を描いたものではありませんが、ヴォランティアが指導する勉強会の模様がよく伝わって来ます。
【旅のメモ(Meridian篇)】Meridian, MSを訪ねてみようと思われた方は是非御覧ください。 【参考文献】 'Three Lives for Mississippi' 'We are not Afraid: The Story of Goodman, Schwerner, and Chaney and the Civil Rights Campaign for Mississippi'
by Seth Cagin and Philip Dray (Macmillan, 1988, $22.50)
'The East End Tea Room' 'Terror in the Night; The Klan's Campaign Against the Jews'
by Jack Nelson (University of Mississippi, 1993, $16.00)
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